2017/05/21

NHKの「発達障害プロジェクト」を観て考えたVR・ARの応用例

http://www1.nhk.or.jp/asaichi/hattatsu/

NHKの複数の番組でつくる発達障害プロジェクト。

2017年5月21日の放送の中で、当事者がどのような感覚世界を生きているかを再現する映像があった。

これは、非常におもしろい。VR(仮想現実)技術・AR(拡張現実)技術によって同じことができれば、他者の感覚世界を再現することができるようになるはず。

「もしあなたが聴覚過敏だったら、こう聞こえる」
「もしあなたが視覚過敏だったら、こう見える」

というところは、現在の技術でかなり実現できそうだ。

(特定の条件を満たした聴覚刺激や視覚刺激に対して、より大きな重みづけをするようなプログラムを組んで実装することになるのだろう)

現時点では、

「もしあなたが、感情をコントロールできない傾向を持っていたら」
「もしあなたが、忘れ物をしやすい傾向を持っていたら」

といったところはまだ難しいかもしれない。

どちらにせよ、「他者がこの世界をどのように感じているのか」という、これまでアプローチのしようがなかった問いに対して、ある程度体感的な解が与えられるというのは、人間が他の人間について理解を深める上で、非常に重要なことだと考える。



* * *



ダイアログ・イン・ザ・ダークというワークショップがある。
http://www.dialoginthedark.com/

これは、真っ暗闇の中で、視覚障がい者のスタッフの誘導に従って探検するプログラムなのだが、以前体験したときに、「これが視力のない人の感覚世界なのか!」と驚愕した記憶がある。

これも、参加する人の現実を「暗闇」と「誘導者」によって聴覚方向に拡張し、「他者の感覚世界を体感する」という体験をつくりだしていると言えるだろう。


他者と同一の感覚世界を体験することは、差別の少ない社会をつくっていくうえで、非常に重要な要因だと思われる。
(道徳的に差別の禁止を説くことや、差別が経済的にペイしないということを見せるよりも有効だろうし、本質的に有意義に思われる)

VR・AR技術がこの方向にも活用されていくとしたら、それは未来の社会を占ううえで、良い兆しなのかもしれない。



2017/03/20

ソードアート・オンラインから考えた患者さん向け仮想世界

ソードアート・オンラインというアニメがある。

最近、このアニメをきっかけに、医療と仮想世界の在り方について考えていた。

少々長文になるが、まとめてみようと思う。

ソードアート・オンラインとは?


以下、ものすごく、ざっくりと説明すると、このアニメは、ゲームの中に閉じ込められた主人公が、そのゲームのクリアを通じて現実世界に戻ろうと苦闘するという話からはじまる。

ゲームといっても、ファミコンのようなものではない。仮想現実の中で、大規模に多数のプレイヤーで行う、ロールプレイングゲーム(VRMMO-RPG)だ。

プレイヤーたちは、ナーブギア、というヘルメットのようなデバイスをかぶってベッドに横になり、仮想空間のなかに「ダイブ」する。

このナーブギアが、「ゲームの中に閉じ込められてしまう」という状況をつくってしまう。

このデバイスは、脳から身体への神経を通した命令をすべて回収し、仮想世界を舞台としたゲーム内のアバター(プレイヤーの分身)の操作へと変換する。

つまり、「思う」だけで、仮想世界の中の自分が動ける、というものだ。


逆に、ゲーム内のアバターが見たり聞いたりする感覚は、ナーブギアを通じて脳にフィードバックされる。

痛みなどは適宜カットされるので、ゲーム内の自分が切りつけられても、同じ痛みを感じることはない、という設定のようだった。

このデバイスが悪用され、ゲーム内からログアウト(現実世界への覚醒)ができないという状況や、ゲーム内での死が現実世界での死とイコールになるという状況が生み出される。


先述のとおり、ゲームの最中は多くの場合、プレイヤーはナーブギアを装着して、ベッドに寝転んでいる。ほとんど眠っているような状態だ。

悪用されると悪夢だが、正しく使われるならば「夢を自由に見ることのできるデバイス」であり、格好の現実逃避の場所である。

作品中には、他のプレイヤーとの結婚や、家の所有などの制度を主人公が利用するシーンも描かれる。

ゲームの中でも、現実世界に負けず劣らず、充実した生活を送ることが可能であるように見える。

このような没入感の高いゲームは、きっとすでに現実にもたくさんあるのだろう。

(ソードアート・オンラインについては、Amazon Primeに登録している人ならば、2017年3月19日現在、Prime Videoからシーズン1を無料で見ることができる)



さて、いよいよ本題に入りたい。

仮想世界と難病


この作品中に、エイズに感染した人のターミナルケアにこのようなデバイス・仮想世界が使われるというシーンがあって、はっとした。


病気などの理由で現実世界での活動が制限されてしまう人に、このような没入型コンピューティングによる仮想世界が「処方」されるという未来には、現実味がある。

たとえば、ALS(筋萎縮性側索硬化症)という病気では、全身の運動神経が変性・死滅していく。

身体が全く動かせなくなるが、感覚神経は無事であるため、暑さ・かゆさ・痛さといった感覚はずっと残る。もちろん、意識も非常に明瞭なまま残る。

考えただけで過酷な疾患だ。

実際に患者さんにお会いすると、その「考え」が甘かったことに気づいて愕然とする。

(ALSについては闘病記なども出ているので、参考されたい)

ベッドに寝たきりになり、そばにいる家族に話しかけることもできず、鼻にとまる蝿も払うことができない。

思っていることを伝えることはおろか、思い切り走りたい、セックスをしたい、といった衝動は全く叶えられず、静かに時間だけが過ぎる。

ALSは決して希少な難病ではない。日本だけで1万人近くの患者さんがいる。

また、ALSだけでなく、交通事故などでほぼ全身不随になるというケースもあるので、同様の環境にいる患者さんはもっと多い。



そのような患者さんが、(仮想空間内であっても)自由に身体を動かし、風を感じ、思い切り剣を振り回して冒険できるとしたら。

好きな人と結婚し、自分の家を持つといった社会生活を営めるとしたら、どんなに素晴らしいだろう。

そう考える医療者がいても、全く不思議ではない。





さて、このような患者さん向けのデバイス・仮想世界がもし完全に実用化されたとすると、現実世界における、難病治療の意味はどう変化するのだろうか。

現実世界で一生懸命、たいへんなコストや身体的・精神的苦痛を伴う闘病生活を送るよりも、仮想現実のなかで充実した暮らしを営む方がよほどQOLが高まる、ということはあり得るかもしれない。


ALSや脊髄損傷といった疾患・怪我に対しては、現在さまざまなアプローチでの治療法研究がなされているが、その一つの方向性は、再生医療だ。

神経の基になる細胞を移植することで、何とか失われた神経細胞を再生できないか、という考え方だ。

実際にこのような再生医療が実現するとしても、患者さん側のリハビリテーションやその後の社会復帰のための努力は、大変なものになるだろう。


それと対照的に、VRMMO-RPGでは、あっという間に自分の好きなアバターを設定して、その世界の中で生きることができる。

もし完全に患者さん向け仮想世界が実用化されたら、ほとんど「転生」するような体験になるのではないか。



どんな人に対してならば、転生が許容されるだろうか?


ALSではないが、寝たきりになってしまった高齢の患者が希望した場合、このような患者さん向け仮想世界を「処方」することは許容されるだろうか。

もう一度、若い時のように世界を体験したいという気持ちを持つ人は、寝たきりの患者さんだけではないはずだ。

どの程度過酷な疾患であれば、この患者さん向け仮想世界の処方がよしとされるのか。

自分の容姿にコンプレックスがあり、いじめなどを機に引きこもりになっている人が希望した場合はどうか。

性同一性障害の場合はどうか。


健康ではあるが、途上国に生まれたり、貧困層に生まれ、まったく現実世界でチャンスがないと感じている人の場合にはどうか。



おそらく、この仮想世界の処方が非常に効果的で低コストある場合、現実世界でのQOLの低さの原因を難病だけに限定して実用化することは、難しいと思う。

場合によっては、非常に教育的な内容の、現実世界への復帰を前提とした仮想世界が構築されるようになるかもしれない。



既に、各大学がオンラインの無料授業=MOOCsを開講しているが、これはある意味で仮想世界で学生になれる、というサービスだ。





授業を最後まで受講し続けるようなモチベーションの高い受講者ばかりではないが、VRMMO-RPGの技術が応用されれば、教育効果はかなり上がるだろう。


今回の記事で考えたこと


このように、十分に発達した患者さん向け仮想世界があり、そちらの方が高いQOLを実現できることが明らかである場合、難病患者さんが現実世界で回復したり、生き延びることを支援するための医療は、おのずとその位置づけ・費用対効果を問われることになるだろう。

そしてそれが実現されたとき、難病以外の原因で「現実世界でのQOLの低さ」に苦しむ人に対してこのような仮想世界を提供することは、許容されていくように思われる。

(そもそも、死後の世界が非常に素晴らしい、という確信を持てるような状況がほかの科学技術の発展によって実現された場合、人は「あまり無理して生きないようになってしまう」のでは?という恐れもある。ただ、この方向性よりも、十分に仮想世界が発達する方が実現可能性が高いようにも思われる)


長くなってきたのでいったんここで区切ろうと思う。


先の、『サピエンス全史』についての記事でも触れたが、人間はどんどん自分たちの住む環境を変え、自分たちをも変えてきた。

私たちは、仮想現実を構築する技術によって、自分たちの意思によって「転生」できる種になっていくのかもしれない。







2017/03/18

『サピエンス全史』を読んで考えた



普段は、ほんとうに、仕事・家事・育児に追われている。

先日読んだ『サピエンス全史』という本は、そんな自分を、長大なスケールの人類史をめぐる旅に出かけさせてくれた。


あまりにおもしろかったので、日本語で読んだあと、英語版もkindleで買ってもう一度読んでいる。
それくらいおもしろい。

衝撃を受けたのは、ホモ・サピエンスである私たち人類が、科学技術の力でおそらく新しい種へと進化をしていくのではないか、という指摘だ。

ホモ・サピエンスが科学技術によって、新しい種・生命を生み出すかもしれないという点も同様だ。


これにはいくつかの方向性があり、たとえばサイボーグ技術や、バイオテクノロジーや、人工知能といった研究などが挙げられていた。

いずれも、私たち人間をこれまで考えられなかったような種へと連れていってしまう技術だといえる。

また、私たちは既にこれらの技術を使って、自然界には存在していなかったような生物を生み出している。

例えば、遺伝子組み換え技術によって改良された大腸菌がさまざまな用途に活躍している。
古くから行われて品種改良も、自然界になかった種を続々と誕生させてきた。
本書の中では、コンピューターウイルスなども生命と言える段階まで進化しうるのでは、といったくだりがあった。



私たちは、おそらく、「生命を生み出したい」という衝動を持っている。

「進化したい、進歩したい」という衝動も持っている。

おそらく、この流れは、倫理的な議論などで時間はかかるかもしれないが、止められないのだろう。

そして、前者の「新しい生命を生み出す」ということよりも、後者の「種として進化する」ということの方が、無自覚なまま進行するだろう。


そもそも、1000年前の人類と比べて、現在の私たちは、生理的にも(栄養状態の飛躍的改善によって)、思想的にも、技術的にも、かなり異なる種だと言えるかもしれない。

自分たちは、主としての自分たちを変えてきたテクノロジーを導入してきたわけだが、その倫理的な可否の検討については、驚くほど無頓着だったように思う。

病気や苦痛から逃れること、栄養状態をよくすること、よりましと思える思想を採用すること、より便利な技術を導入することについて、私たちはあまり躊躇わない。

だから、私たちはいつの間にか、かなり遠いところまで来ている。

遅かれ早かれ、非常に便利なウェアラブルデバイスが普及すれば私たちはそれを使いこなすようになるだろうし、身体に埋め込んだり、飲み込んだりする型のナノマシンなども出てくるだろう。

これらの技術は、振り返ってみたとき、種としての人類を進化させる一歩一歩に見えることだろう。


これから、何が実現されていくのか。

私たちは、いったいどんな生を望むようになるのか。



これらの問いについて、また別の記事を書きながら考えていきたい。