2017/03/18

『サピエンス全史』を読んで考えた



普段は、ほんとうに、仕事・家事・育児に追われている。

先日読んだ『サピエンス全史』という本は、そんな自分を、長大なスケールの人類史をめぐる旅に出かけさせてくれた。


あまりにおもしろかったので、日本語で読んだあと、英語版もkindleで買ってもう一度読んでいる。
それくらいおもしろい。

衝撃を受けたのは、ホモ・サピエンスである私たち人類が、科学技術の力でおそらく新しい種へと進化をしていくのではないか、という指摘だ。

ホモ・サピエンスが科学技術によって、新しい種・生命を生み出すかもしれないという点も同様だ。


これにはいくつかの方向性があり、たとえばサイボーグ技術や、バイオテクノロジーや、人工知能といった研究などが挙げられていた。

いずれも、私たち人間をこれまで考えられなかったような種へと連れていってしまう技術だといえる。

また、私たちは既にこれらの技術を使って、自然界には存在していなかったような生物を生み出している。

例えば、遺伝子組み換え技術によって改良された大腸菌がさまざまな用途に活躍している。
古くから行われて品種改良も、自然界になかった種を続々と誕生させてきた。
本書の中では、コンピューターウイルスなども生命と言える段階まで進化しうるのでは、といったくだりがあった。



私たちは、おそらく、「生命を生み出したい」という衝動を持っている。

「進化したい、進歩したい」という衝動も持っている。

おそらく、この流れは、倫理的な議論などで時間はかかるかもしれないが、止められないのだろう。

そして、前者の「新しい生命を生み出す」ということよりも、後者の「種として進化する」ということの方が、無自覚なまま進行するだろう。


そもそも、1000年前の人類と比べて、現在の私たちは、生理的にも(栄養状態の飛躍的改善によって)、思想的にも、技術的にも、かなり異なる種だと言えるかもしれない。

自分たちは、主としての自分たちを変えてきたテクノロジーを導入してきたわけだが、その倫理的な可否の検討については、驚くほど無頓着だったように思う。

病気や苦痛から逃れること、栄養状態をよくすること、よりましと思える思想を採用すること、より便利な技術を導入することについて、私たちはあまり躊躇わない。

だから、私たちはいつの間にか、かなり遠いところまで来ている。

遅かれ早かれ、非常に便利なウェアラブルデバイスが普及すれば私たちはそれを使いこなすようになるだろうし、身体に埋め込んだり、飲み込んだりする型のナノマシンなども出てくるだろう。

これらの技術は、振り返ってみたとき、種としての人類を進化させる一歩一歩に見えることだろう。


これから、何が実現されていくのか。

私たちは、いったいどんな生を望むようになるのか。



これらの問いについて、また別の記事を書きながら考えていきたい。